激レアさん!岡村精二 手漕ぎボートでアメリカまで太平洋横断成功
2020年3月21日放送のテレビ朝日系列『激レアさんを連れてきた。』のゲストは、5ヶ月かけて手漕ぎボートで日本からアメリカに渡った岡村精二(オカムラセイジ)さんです。
「えっ、手漕ぎボートでアメリカまで行った!?」と驚いた人は多いことでしょう。
流石に、池で乗るような簡単なボートではありませんが、ヨットの形をした手漕ぎボートで約9000㎞を渡り切りました。
日本初となる「自設計自作りヨットによる単独太平洋横断成功」という偉業を成し遂げた岡村精二さんの素顔に迫ります。
岡村精二ってどんな人?
岡村精二さんのプロフィールは、次のとおりです。
【名前】 岡村精二(おかむらせいじ)
【生年月日】 1953年
【出身地】 山口県宇部市
【趣味・特技】 ボート
【高校】 国立宇部工業高等専門学校機械工学科卒業
【最終学歴】 山口大学大学院(防災システム工学)修士課程修了、山口大学大学院博士課程単位取得退学
【事務所】 『学校法人山口精華学園』の理事長、『NPO法人森と海の学校』の理事長、『NPO法人YMO21』の理事長など
岡村精二さんは、1977年にヨットで太平洋横断に成功した後、1979年にNHK『青年の主張』の全国大会で優秀賞を受賞しました。
そして、冒険家になるか迷ったものの、教育に携わることを決意します。
社会人枠で山口大学大学院に入学し、防災について学ぶと、1984年に学習塾『おかむら塾』を開塾しました。
その後、建築家と政治家を経て、『学校法人山口精華学園』『NPO法人森と海の学校』『NPO法人YMO21』を設立し、現在はこれらの理事長の他、多くの団体の会長職等に就いています。
岡村精二が手漕ぎボートで太平洋横断に成功した経緯
山口県宇部市で生まれ育った岡村精二さんは、中学3年生の時にヨット冒険家である堀江謙一さんの『太平洋ひとりぼっち』を読んで単独太平洋横断に憧れるようになり、地図を眺めては日本からアメリカへの航路を線引きするようになりました。
高校生になると、実際に計画を立て、ヨットを手作りします。
こうなると、手で漕いで太平洋横断することに挑戦せずにはいられなくなり、大学進学を諦めました。
先生には、「1年浪人する」と嘘を言っていたのがバレ、親子で学校に呼び出されて怒られましたが、母親は「黙って見てあげてください」とかばってくれたそうです。
家族の理解を得て覚悟が決まった岡村精二さんは、高校卒業後に貨物船やタンカーなどの船員として働き、2年半で350万円貯め、さらに、航海士の免許を取得しました。
そして、その貯金を使って『シンシア3世号(全長6m、幅2m、9mmベニヤ合板製)』を自作したのです。
帆があり、見た目はヨットですが、ボートでは許可が下りないと判断しての仕様で、最初から手漕ぎでの挑戦を決意していました。
こうして準備が整い、1976年、23歳の時に宇部~サンフランシスコ間1万㎞の航海に出航しますが、結局、ヨットでも太平洋横断の許可は下りず、密出国という形での出発です。
出航当日、洋上で広げた重箱の弁当には、「がんばれ!母」「生きて帰れ!父」と書かれた手紙が入っており、以後、ビニール袋に入れてお守り代わりにしていました。
そんな両親の応援に応えるためにも頑張ろうとしていた矢先に、災難が訪れます。
宇部港を出港し、八丈島で帆を使えないようにして手漕ぎしていたのですが、八丈島を出港して10日後に嵐でボートが転覆してしまったのです。
何とか元通りに戻り、一晩かかってバケツで海水を汲み出しましたが、どこからか水漏れしていることが明らかになり、諦めて帰還するために帆を使いました。
しかし、転覆から2日後、水漏れが止まったことが分かると、偶然出会った漁船に大量の食糧をもらうと共に「やはり行く」との電報を頼み、太平洋横断を続けます。
その結果、147日目にアメリカに到着しました。
転覆した際に帆を使ってしまったので、「手漕ぎでの太平洋横断」は失敗しましたが、「日本人初の自設計自作りヨットによる単独太平洋横断」に成功しています。
岡村精二さんは密出国したため、強制送還される可能性がありましたが、サンフランシスコ市長が名誉市民として受け入れてくれたことにより、偉業を成し遂げた冒険家として名を残しました。
ちなみに、シンシア3世号は、精華学園高等学校の新校舎のロビーに展示されています。
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